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2007年10月27日 (土)

「普通」をちと真面目に考える

 今週は立て続けに大学時代の友だちにお酒がてら会った。一人は臨床心理士、もう一人は保育士さんとして、人と向き合う仕事をしている。二人とも別々の話をしたのだけれど、振り返るとどうやら「普通」がキーワードだったようだ。

 彼ら自身は(自分から見て)決して普通でも何でもない、山あり谷ありの人生を歩んでいる曲者である(向こうからこっちを見ても同じことを言うかも)。ただ、彼らは人と向き合って仕事をしているときは、「当たり前の環境」を相手に提示することに腐心している。自分とはそこが違うかもしれない。彼らは「普通」ということを強烈に意識しているように感じた。

 自分の仕事柄、「普通がいい」と言われると割と無条件に反発する。「普通」ってなんじゃ、違っとってもええやないか、と。おそらく二人以外の人から「普通」の話を言われるとそこで耳を塞いだかも知れない。二人を知っているから、納得がいく話ができた。それはよかった。

 ところで、「普通」には2つあるように思う。たいていゴッチャに使われているが、「普通」というのは「何か決まった状態にある人」(たとえば病気がないとかいった、早寝早起きするとか個人に属する『普通』)と、「何か決まった規範がある社会」(玄関で靴を脱ぐとかいうレベルでもいいと思うが)の2つがある。んで、一般的には「普通であることはいいことだ」と言われる。「普通の人」の意味であれ、「普通の社会」であれ。

 しかし、普通なんて怪しいもの。江戸時代の普通と今の普通は違う。日本の普通と外国の普通も違う。「郷に入れば郷に従え」というのも結局「郷」によって「普通」が異なるから出てきた言葉。それなのに、「普通」にどれだけ近いかを皆競い合う。

 自分の商売は、「社会的排除」を常に意識するので、「普通」って聞くと「普通じゃない人を追い出す理屈」と捉えてしまう。しかし、そうやって肩肘張って生きていても、どんな生き方をしても「普通」というものを意識しないで生きていくことはできない。「普通に生きる」ってどういうことなんだろう。

 「普通」の状態からの距離をみんなで競い合っている社会も、遠くから見てみると案外むなしい。「普通でありたい」という願望に執着して、でも、それでストレスだけを蓄えて、それでも「私は普通」を主張する悲しさ。結局のところ、「普通」の概念を広げて考えられる世の中にしていかないと、生きづらいということだろうか。うーん。わからんくなった。でも、たまには肩の力を抜かないとね。犯罪しない程度で悪くなってさ。

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